萩原朔太郎\涅槃\涅槃
涅槃
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟《おもひ》にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神秘をおもふ。
涅槃は熱病の夜あけにしらむ
青白い月の光のやうだ
憂鬱なる 憂鬱なる
あまりに憂鬱なる厭世思想の
否定の、絶望の、悩みの樹蔭にただよふ静かな月影
哀傷の雲間にうつる合歓の花だ。
涅槃は熱帯の夜明けにひらく
巨大の美しい蓮華の花か
ふしぎな幻想のまらりや熱か
わたしは宗教の秘密をおそれる
ああかの神秘なるひとつのいめえぢ――「美しき死」への誘惑。
涅槃は媚薬の夢にもよほす
ふしぎな淫慾の悶えのやうで
それらのなまめかしい救世《くぜ》の情緒は
春の夜に聴く笛のやうだ。
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟《おもひ》にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神秘をおもふ。